1: まるっとニュー 2020/08/10(月) 13:42:58.80 ID:CAP_USER
[ユン・ミョンチョルの韓国、韓国人再発見]
麗蒙連合軍の日本列島攻撃(上)
モンゴル帝国に敵対的に対応した日本
クビライカン、日本征伐決定…高麗と麗蒙連合軍結成
戦力上は麗蒙連合軍が優れていたが日本が勝利

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▲1次連合軍が最初に占領した対馬の小茂田浜海岸。写真=ユン・ミョンチョル東国(トングク)大名誉教授・ウズベキスタン国立サマルカンド大教授

歴史は事実を正確に知り、客観化することが必要だ。私たちが麗蒙(元蒙)連合軍の「日本征伐」と呼ぶ戦争を中国は「元日戦争」と言い、日本は「文永の役」「弘安の役」と呼ぶ。天皇の年号で表現する日本的な自意識と勝者の余裕が感じられる。

1274年陰暦10月5日から10月20日まで、高麗軍1万4700人、モンゴル・漢軍2万5000人、900余隻の戦力が動員されて日本軍と戦争を行った。引き続き1281年陰暦5月21日から7月7日までモンゴル軍3万人、高麗軍2万7000人、江南軍10万人など4000余隻の多国籍軍が日本を攻撃したが失敗した。

私たちは麗蒙連合軍が日本を占領しようとしたが、海岸で神風にまきこまれてほとんどの船が沈没し、軍人は全滅したが、高麗の船は丈夫で被害は少しだったと知っている。奇形的な国際戦の実状はどのようで、主体はどの国だったのだろうか?また、高麗の役割は何で、兵士と国民の被害はどれほどだっただろうか?

4世皇帝に上がったクビライにモンゴル帝国が課した最大の課題は南宋の滅亡と東方の完全征服だった。日本列島は地政学的、経済的、文化的に価値はあまりなかった。ただし、一部の見解のとおり南宋を攻撃する時、外交的背後の役割程度であった。

クビライカンは1226年、高麗に日本征伐の意図を宣言して協力を要求した。これに対し高麗は1268年6月、クビライと高麗の国書を日本に伝達した。しかし、予想とは異なり日本は敵対的態度を見せ、使節を抑留までした。3番目に派遣した使節もまた無視した。

いよいよ遠征が決定し、高麗は正月16日に工事を始めて5月大晦日まで大船と小船合わせて900隻を作り物品も全て整えた。辺山半島地域と羅州の天冠山地域の木材を活用し、戦船300隻、高速攻撃船300隻、給水船300隻など900隻をわずか4ヶ月半で完成したのだ。高麗の造船能力がどれほど優れており、続く戦争でも国力、労働力などが残っていたことが分かる。
(中略:元寇の詳細な状況を高麗軍の立場から説明。長文につき割愛。「驚くべきことに日本人は「神風」と「奇跡」と名付けたが、自然は二回とも日本を助けたのだ」)

この戦争は軍隊数、戦力、戦争経験や技術、武器などだけ見れば麗蒙連合軍が勝利するはずだった。ところが日本が大勝利をおさめた。麗蒙連合軍の戦闘開始日の選定と艦隊運営方式、指揮権の葛藤など内部事情や国際秩序などの要因は正確には分からない。そのため、生半可に結論を下すことは難しいが、日本は明らかに地形と海洋環境、気候を有効適切に活用して勝利した。そして運があまりにも良かった。個人に運と運命があるように国と民族にも明らかに運というものがあり、歴史は必然だけでなく偶然にも予想外に多く作用を受ける例を示した。
(後略)

オ・ジョンミン記者

ソース:韓国経済(韓国語)麗蒙連合軍の日本征伐、失敗した理由は[ユン・ミョンチョルの韓国、韓国人再発見]
https://www.hankyung.com/life/article/202008097328g

前スレ:https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1597016241/
★1のたった時間:2020/08/09(日) 23:08:07.06

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引用元: ・【元寇】 麗蒙連合軍の日本征伐、戦力は上だったのに失敗した理由は?~国や民族にも運がある★3[08/09] [Ikh★]

【 侵略したなら戦犯ではないのか 【元寇】 麗蒙連合軍の日本征伐、戦力は上だったのに失敗した理由は?~国や民族にも運がある★3[08/09] [Ikh★]】の続きを読む