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    タグ:東京経済大学

    1: ねこ名無し ★@無断転載は禁止 2017/08/31(木) 23:32:42.21 ID:CAP_USER
    『再び、日本を考える―退行する反動期の思想的風景』
    徐京植著、ハン・スンドン訳/木の鉛筆刊・1万6000ウォン

    「和田先生の方向設定は間違ったのではないか、というのが私の論点である。このような問題提起に対して、『彼は善良な人だ』というような反撃は論点から外れたもので(…)悪意的なすり替えとしか言えない」

    東京経済大学の徐京植(ソ・ギョンシク)教授は、韓国と日本の両社会でいずれも「他者」だ。彼は韓国では在日同胞という国外者として、日本では在日朝鮮人というマイノリティとして生きてきた。韓国では2人の兄がスパイ団操作事件で残酷な苦境を経て、日本では差別と排斥を受けた。

    彼の家族史は二つの社会の主流とマジョリティが見ることができない、いや、見ようとしない不都合な真実を対面させる。彼が経験した辛酸の人生は、前作の『私の西洋美術巡礼』で見せた豊かな人文学的、文学的、歴史的素養と昇華された。

    だが、彼は『再び、日本を考える』で刀を抜いた。韓日関係と日本の歴史問題で、日本の良心を代弁するという和田春樹東京大学名誉教授に対する彼の直接的批判が代表的だ。彼がこの本で触れる不都合な真実の対象は、日本の進歩陣営だ。

    彼は安倍晋三政権に象徴される最近の日本の退行と反動の責任を、われわれには進歩陣営と認識される“リベラル派”に問うている。

    彼によると、日本社会は1990年代以降、長い「反動の時代」に入った。1990年代半ばまでの「社会党・総評(日本労働組合総評議会)」系グループ、新聞を例にとるならば「朝日新聞」「毎日新聞」「東京新聞」とその読者層で構成された日本のリベラル派は、日本内外の潮流で崩壊した。

    社会主義圏崩壊と東西対立構図の終焉、新自由主義の到来の前に投降したのだ。韓国などアジア諸国では権威主義体制が動揺し、民主化が進んだ結果、「慰安婦」問題など日本の封印された戦争犯罪問題が表面に浮上した。だが、当事国日本はこのベクトルが逆方向に向かった。

    進歩勢力を結集する代案を提示する代わりに、「脱イデオロギー時代」という浅薄なスローガンと共に自ら自己崩壊の道を選んだ。進歩的立場を代弁する社会党は、保守右派の自民党との連立を受け入れた、結局消滅へと進んだ。国家主義に抵抗して日章旗日の丸と国歌君が代斉唱を拒否した教員労組は、これを容認した。

    徐京植は慰安婦問題を帝国運営の付随的被害と主張する「朴裕河(パク・ユハ)現象」を取り上げてこれを説明する。

    「朴裕河の言説が日本のリベラル派の隠れた欲求に正確に合致するからだ(…)右派と一線を画すリベラル派の多数は、理性的な民主主義者を自任する名誉感情と旧宗主国の国民としての国民的な特権をみな逃したくないのだ」

    韓国の立場で彼のこのような批判は、慰安婦問題に対する和田教授の現実主義的旋回を見れば理解できる。和田教授は2015年12月28日の韓日慰安婦問題合意を白紙撤回するようにするのは「事の経過から見ると難しい」と話す。

    新たな解決案を出すことにする力が日本国内にはないため、その韓日合意が改造・改善の道へ行くしかないと見ている。

    本書は、徐教授が最近書いた日本についての文章を選んでまとめたものだ。慰安婦問題をめぐり和田教授に送る手紙形式の二編の文、彼がマイノリティとして日本社会を見つめる愛国主義、改憲、安保法制問題などを解剖する。

    彼にとって日本のリベラル派は、両国とその関係の未来のために見捨てたり売り渡すことのできない、いや、最後まで共にしなければならない勢力だ。だから、徐京植が不都合な真実を覆してみせたのは決して害を与えようとするものではない。

    チョン・ウィギル先任記者

    http://japan.hani.co.kr/arti/culture/28337.html

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    『再び、日本を考える―退行する反動期の思想的風景』徐京植著、ハン・スンドン訳/木の鉛筆刊行//ハンギョレ新聞社

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    1: 動物園φ ★@\(^o^)/ 2016/03/15(火) 09:47:41.83 ID:CAP_USER.net
    暗鬱な風景

     この数年、眼の前にはつねに暗鬱な風景が広がっています。2012年12月の総選挙で自民党が大勝し政権政党に復帰しましたが、その際の街頭演説の光景が目に焼き付いています。秋葉原の駅頭で演説する安倍晋三自民党総裁を、日章旗を打ち振って歓呼する「市民」たちが取り巻いて、反中・嫌韓・在日外国人排斥を叫びました。1930年代のドイツやイタリアにタイムスリップしたような、身の毛のよだつ光景でした。インターネット上で、都市の街頭で、極右排外主義勢力の暴言が続いています。それどころか、現在の日本政界は、安倍首相自身をはじめとする歴史修正主義者たちに完全に占拠された状態です。

     「慰安婦」問題をめぐっても、韓国の運動体には「過激民族主義」、日本の市民運動体には「反日主義」という低劣な悪罵が投げつけられ、韓日の市民・研究者たちの積年の努力、研究の蓄積、議論の深化をまったく覆す勢いで、否定論や歴史修正主義の嵐が吹き荒れています。嘆かわしいのは、ジャーナリストや知識人たちまでも、このような嵐にただただ身をすくめるか、あるいはみずから進んで同調していることです。

     昨年夏に発表された安倍晋三首相の「戦後70年談話」は首相自身がまぎれもない歴史修正主義者であることを再確認させるものでしたが、日本のメディアや知識人から、その点を鋭く指摘する声はほとんど聞かれませんでした。安倍談話は冒頭で、「日露戦争が、植民地支配のもとにあった多くのアジア・アフリカの人々を勇気づけた」と述べています。この認識は長年にわたって日本保守派に広く共有されてきたものですが、朝鮮民衆の立場からは到底容認できないことは言うまでもありません。日露戦争は朝鮮半島と中国東北地方(満州)の覇権をめぐる戦争であり、朝鮮は日本によって軍事占領されて「保護国」化され、そのことが、のちの「併合」へとつながりました。植民地化に抵抗した「抗日義兵」など多くの朝鮮民衆が日本軍に殺戮されたことも歴史の事実です。その朝鮮民族に向かって、安倍首相は、日露戦争を引き合いに出して自国を美化してみせたのです。これは「和解」とは正反対の、愚弄とも挑発ともいえる言動です。

     ここでは朝鮮の例のみを挙げましたが、安倍談話は北海道、琉球(沖縄)、台湾に対する征服と支配について、一言の「おわび」も「反省」も述べていません。安倍首相がその談話において「反省」したのは、第一次世界大戦後、日本が「世界の大勢」を見失い、戦争への道を進んで行った、という点のみでした。これは欧米諸国への弁明にすぎず、植民地支配と侵略戦争の被害者に向けた「反省」といえるものではありません。

     安倍談話には「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と述べているくだりもあります。これがいわゆる日本軍「慰安婦」を指す言葉であれば、なぜ明示的にそう語らないのか。「忘れてはなりません」と、誰が誰に向かって教え諭そうというのか。しかも、誰が傷つけたのかという主語は周到にぼかされています。あくまで国家としての責任を否定または回避しようとする意図がそこに貫かれています。

     日本政府は昨年夏の国会で憲法の恣意的な解釈変更によって日米間の「集団的自衛権」を容認する安保法制を強行採決しました。本年1月、「戦後レジームからの脱却」を信条とする安倍首相は、今後改憲に着手すると公然と表明しました。戦後日本の平和主義は、朝鮮民族を含む莫大なアジア民衆の犠牲を代価として与えられたものです。平和の果実はおもに日本国民が享受して来ましたが、日本国民だけのものではありません。しかし、それさえも、いま投げ捨てられようとしているのです。みずから「平和国家」を標榜し、世界の多くの人々もそのように思い込んできた日本が、その看板を降ろす日が迫っています。日本社会に生まれ、そこで65年を暮らしてきた私ですが、こんな風景を見ることになるとは想像していませんでした。なぜなら、私に「人権」「平和」「民主主義」など普遍的価値を教育したのも、戦後日本の平和主義教育と文化だったからです。それが、目の前で無残に崩れています。

    徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授

    全文
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160313-00023573-hankyoreh-kr

    引用元: ・【在日】暗鬱な風景が広がる日本 日本の人権、平和、民主主義は無残に崩れている 徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授

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